ゆのつ夢幻一夜③ 完
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- 島根のファンタジー
- 石見神楽を見たあと、すすめられた日本酒をほんの少し飲んだだけで、祥吾は眠りこんでしまう。目を覚ますと、景色は一変していた。
目が覚めて最初に感じたのは、埃っぽいにおいだった。続いて首や背中がひどくこわばっているのを自覚して、祥吾はうめいた。すっきりとした目覚めとはとてもいえない。
それから、体の下にあるはずの布団さえどこにもないことに気づいて、祥吾は勢いよく起き上がった。なんだこの状況は。ここはどこだ?
縁側の障子を通して白っぽい光線となった朝の陽射しが、祥吾の足元の畳を照らしている。ぼうぜんとしているうちに、シャワシャワと蝉の声が聞こえはじめた。
ゆっくりと見回した周囲は、意識を失う前の景色とはまるで違っていた。目に入る範囲の壁や畳にはカビやシミの跡が残っていて、天井からぶら下がった電球は、電気の通っていそうなしろものではない。民家を改造した宿どころか、どう見ても、長いこと放っておかれた家の中そのものの様子だ。
そこで初めて気づいた。
ここは宿なんかじゃない。昨夜必死に掃除した祖母の家だ!
頭が混乱するのと、くしゃみが止まらなくなるのは同時だった。祥吾は鼻のあたりをごしごしこすりながら、縁側のガラス戸をあけ放った。
視界がぱっと明るくなった。風を通して、外の空気を吸って、やっと少しましになった目鼻のかゆみに顔をしかめたとき、「あれ、祥ちゃん、大きなって。帰ってきたんか」と声をかけられた。
向かいのおじいさんだった。昔、家族で温泉津へ遊びに来たとき、何かと親切にしてもらった覚えがある。目をしょぼしょぼさせながら「お久しぶりです」とあいさつした祥吾に、おじいさんは声を上げて笑った。
「昨日頑張って掃除しとったな。それでも埃っぽいじゃろうに、よう泊まったな」
「いや……泊まった記憶がないんですよ」
昨日の体験を、不思議な仲居さんに会ったあたりから、祥吾は全て話した。こんな荒唐無稽な内容を素直に話させたのは、温泉津という町の雰囲気だろうか、おじいさんの笑顔だろうか。祥吾自身、信じてもらえると思っているのか、ただ聞いてほしいだけなのか、自分でもわからないまま、昨日泊まったはずの宿のことをおじいさんに語った。
おじいさんはちょっと首をかしげたり、ときおり頷いたりしながら聞いていたが、最後まで聞き終えて、「タヌキじゃろう、それは」と言った。
「祥ちゃん、あんた、タヌキに化かされたんよ」
「そんなこと、あるんですか?」
いやわからん、と返されて、祥吾の肩から力が抜けた。その表情を見て、おじいさんはいやね、と話を続けた。
「ほんとかどうかわからんけど。ミヨさんが亡くなるしばらく前のことじゃけど、タヌキが遊びに来るって言ってたけん」
ミヨさん。祥吾の祖母の名が突拍子もない話の中に出てきて、祥吾は目を丸くした。おじいさんは語る。
「ミヨさんもなかなか厳しい人で、働かざるものは食うべからず、が口癖だったけんど、縁側に現れたタヌキにも同じように言ってみたら、たまに肩もみをしに来るようになったと。小さい子どもに化けて……。ミヨさん、野生動物に餌付けしちゃならんのは知っとるが、あんまり一生懸命マッサージしてくれるけん、百円やったと笑うとったわ」
おじいさんは苦笑した。
「温泉津の温泉はタヌキが見つけたっちゅうし。祥ちゃんが連れて行かれた温泉も、タヌキしか知らん秘密の湯かもしれんなあ。……まあ、都会っ子にはバカバカしい話、と思われるかもしれんけど」
「いや……なんだか、ありそうだって思っちゃった。おれが声かけたのは猫だったんですけど」
やりとりの中でふいに思い出して言うと、おじいさんは微笑んだ。
「祥ちゃん、やっぱりミヨさんの孫だわ。おおかた、宿にいたのがタヌキで、お神楽をしてみせたのは猫だったんじゃないかね。猫が夜中に集まって踊る話はよくあるが」
「そうかなあ」
「ま、なんとも言えんけどな」
それはそうだ。祥吾は笑った。
「おかげで車中泊はまぬがれたし、見られないと思ってた石見神楽も見られたし。今は埃っぽくて体じゅうあちこち痛いけど、なんだか許せるよ」
「若いけ、そんなもん、温泉につかれば一発で治るわ。ほれ、もういっぺん入ってこい」
「うん、そうします」
そしておじいさんも家の中へ引っ込んで、祥吾も縁側の戸を閉めた。荷物をまとめ、家中の戸締りを確認して、玄関から表に出た。しっかり鍵を閉めて、あちこち剥げて、汚れてしまった家の様子を見上げた。
もっと遊びに来たらよかったなあ、と思った。子どもだったから仕方ない、と心の中で言い訳しつつ。
またくしゃみがひとつ出た。鼻の奥がかゆい気がする、ため息をついて、祥吾は旅館街のほうへ歩きはじめた。
早起きの観光客や地元民とすれ違うことはあったが、狭い街道は、それでも静けさをまとっている。
年季の入った門の横を通りかかると、日陰になったあたりで二匹の子猫がくつろいでいた。高くなっていく朝陽の光に目を細めながら毛づくろいをする彼らに、「舞子連中の猫か?」と聞いてみたが、知らんふりされた。
温泉にはすぐにたどり着いた。番台の女の人にお金を渡して、すたすたと奥まで進む。
荷物を置き、服を脱いで、温泉へ続く引き戸を開けると、むっと息もつまるような熱気が押し寄せてくる。祥吾は、昨日も同じ体験をしたばかりだなあ、とふっと微笑んだ。
つかったり上がったりをいく度か繰り返して、温泉を出てみると、肩や背中のこわばりがとれて、全身がすっきりと軽くなっていた。
温泉から上がり、建物の外に出てみれば、のぼせかけた体に夏の朝風が気持ち良かった。硫黄のにおいと潮のかおりがやわらかくまじりあう、温泉津の風だ。
いい天気だった。午前中にここを後にするのがもったいないくらいに、空は青く、山の木々は濃い緑をして、陽光に照らされた家々の屋根の石州瓦はつやつやと赤い。
くつろいだ心持ちで温泉津の景色を堪能しながら、祥吾は、また来ようと思った。今度はもう少し用意周到に、温泉津の隅から隅までじっくり楽しみつくすのだ。
そう決意するいっぽうで、タヌキの温泉宿と猫の舞子連中に、もう一度化かされてみたい、とも思うのだった。