ゆのつ夢幻一夜②
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- 島根のファンタジー
- 宿に案内された祥吾は、温泉に入り、石見神楽を見せてもらうことに。「大蛇」の演目に満足したところで、祥吾は日本酒のサービスをすすめられる。
祖母の家に停めた車から、荷物を持ってくるあいだだけ待ってもらって、祥吾は再び、仲居さんと合流した。
仲居さんは祥吾の先に立って歩きはじめた。温泉や旅館がある方向からどんどん離れていく。細い通りに入りこみ、民家の立ち並ぶあたりへ。まだ夜もそんなに更けていないのに、人けがない。少し不安になった祥吾の心を見透かしたように、仲居さんは前を向いたまま話した。
「もとは一般の民家ですから、他の旅館の並びからは少し離れるんでございます」
「あ、なるほど。じゃあ、周りは人が住んでますよね」
確認しつつも、騒いだり物音をたてたりする予定はないから、祥吾は今のところ宿の立地をたいして心にとめずにいた。
やがて、仲居さんはある民家の前で足を止め、こちらです、と指ししめした。
「この民家が、宿となっております。鍵は宿の者があとで持ってまいりますので、先に入ってお待ちください」
「ありがとうございます」
「それと、露天風呂つき温泉のある別館もございます。温泉は無料でご利用いただけます。いかがですか?」
祥吾は目をかがやかせた。温泉街での一泊、夜には宿の温泉、朝には近隣の外湯。最高だ。
「ぜひ!」
「別館は少し離れたところにありまして、送迎つきですが、時間指定していただく必要があります」
じゃあ、と祥吾は腕時計を見てからこう言った。
「一時間後くらいでお願いしてもいいですか? 先に飯食ってます」
「もちろん、大丈夫でございますよ」
「それでお願いします」
話はすんなりと決まった。仲居さんは、宿の使い方を一通り説明して、玄関のところでぺこりと一礼した。
「それでは、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
祥吾もにこにこしながら会釈を返し、仲居さんが出て行き、扉が閉まるのを見届けた。
とたんに、家の中はシンと静まりかえった。居間の電気はすでについているのに、妙に薄暗く感じられる。祥吾は少し身震いすると、奥の洗面所や台所回りの灯りもつけて回った。
静けさが気になったところで、テレビがないことに気がついた。珍しいなと思ったが、祥吾はテレビの有無にはたいしてこだわりがない。ただ、この古い町、古い家特有の静寂には、落ち着かないものがあった。 リュックから携帯型音楽プレイヤーをとりだして、元気の出るロックナンバーを流しておくことにした。
音楽をかけながら、車からおろしたクーラーボックスを開け、夕食の用意をはじめた。
用意といっても、道中立ち寄ったスーパーで買った刺身のパックを並べるだけだ。祥吾はそのまま何種類かの刺身を食べはじめた。
今日買ってきていたのは、バトウ、ワカナ、それとイカ刺しの三種類だ。
バトウは白身魚で、刺身でありながらもっちりとした食感が特徴だ。味は淡白だが、かめばかむほど旨味を感じられる。
ワカナはブリの若魚で、ハマチよりはあっさりとしている。祥吾の好みには、これぐらいの脂の乗りがちょうど良かった。
イカ刺し自体は珍しいものではないが、その身は透明度が高く、食感も甘みも、海の近くだからこその新鮮さによるもの。祥吾は、島根に来たなら、イカは絶対に外せないと思っている。
イヤホンを耳につけ、音楽を流しながら、祥吾は温泉津の楽しみのひとつだった海の幸に舌鼓をうった。
食事が終わり、流していたアルバムが終わりにさしかかったころ、ドアを軽く揺すぶるような音がして、祥吾は小さく飛び上がった。イヤホンを外しながら玄関のほうへ近づくと、お客さーん、宿の者ですー、と男の声が聞こえた。
胸をなでおろしながら引き戸を開けると、人のよさそうな甚平姿の男が立っていて、ぺこりと頭を下げた。
「お迎えに上がりました。別館へお送りしますよ」
「あ、ありがとうございます」
やりとりの後すぐに、祥吾は、あらかじめまとめておいた入浴グッズを抱え、男と一緒に外に出た。もうだいぶん薄暗くなった表で戸締りをして、鍵をポケットにしまった祥吾の様子を見ながら、男はこちらへ、と声をかけてきた。
「車でお送りいたしますんで」
「お願いします」
案内された車は旅館のロゴがついているわけでもない、なんの変哲もない普通自動車で、町のさらに奥まったところに停められていた。
後部座席に乗りこんでみると、車の中は快適な気温が保たれていて、シートはふかふかと座り心地がよかった。ふいに、大掃除の疲れが波のように押し寄せてきて、祥吾はすうっと眠りに引きこまれていった。
車のドアが開く音で、祥吾は再び目を開けた。
「お客さん、つきましたよう」
男に声をかけられて、祥吾は伸びをした。
とたんに、濃厚な硫黄のにおいが鼻をついた。祥吾は一瞬息をつめたが、少しずつ吸い込むと、そのにおいは祥吾の胸をなつかしく満たした。
しかし、と祥吾は首をかしげた。温泉津はこんなにむっと強いにおいのする温泉街だったろうか。この街で温泉のにおいがするときは、どちらかといえばもっとふうわりと、頭上を漂うようにくゆっていたような思い出がある、ホットケーキを焼くときのにおいのように。
車から出て、祥吾は目をしばたたいた。
狭い路地、古びた建物や看板、オレンジ色の街灯。よく知っている温泉津の景色なのに、一瞬、見知らぬ町に出たような気分になったのだ。
「あれ……?」
寝ぼけ半分、首をかしげながら声を漏らしてしまったが、男はふふっと笑うだけだった。
「こちらでございます」
男に案内されて、祥吾は小さめの建物に足を踏みいれた。宿の別館というよりは、やはり少し手を入れた古民家そのものだった。知らない家に上がりこむようで落ち着かない気分になったが、玄関で靴をぬいでいるときにスリッパを持った仲居さんが現れたり、奥に通されるときに一般の家庭にはないような広い座敷がちらりと見えたりすると、ああ宿泊施設だなあと思うのだった。
やがて男、女と書かれたのれんの前まで来て、男は立ち止まった。
「どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
「ありがとうございます!」
礼を言ってのれんをくぐり、脱衣所に必要なもの以外全部置いてしまうと、祥吾は木造の引き戸に手をかけた。
開けたとたん、熱気と独特のにおいが押し寄せてきた。ここも源泉かけ流しの湯だ。湯と共に湧きだしている成分が、湯船全体とその周辺を、赤茶色のでこぼこした物質で覆いかためている。
貸切状態の今は気にすることもないが、宿の温泉にしてはシャワーの数が少なかった。この規模の宿なら、まあそんなものか、と思いながら、祥吾は大掃除で汚れた頭と体をきれいに洗うと、いよいよ湯船に歩み寄った。
湯船に片足を突っ込んだところで、祥吾はうなって一度動きを止めた。かなり熱い。
じりじりと両足を湯船に入れ、少しの間、湯船の縁に座った足湯状態で体を慣らしながら、祥吾は徐々に温泉に体をつけていった。
首までつかってしまうと、ビリビリするような熱さは少しやわらぐ。それでもぬるめの温度に慣れきった体では、この湯に長くつかっていることはできなくて、少し経つとまた湯船の縁に上がって、足湯状態を再開した。
ほっと息をついた祥吾は、露天風呂に続く出口のほうを見て、のぼせる前に行くか、と思って立ち上がった。
すりガラスの戸を開けた先に広がった景色に、祥吾ははじめ、どこの洞窟の中に迷いこんだのかと思った。
露天風呂は、うずたかい石垣でがっちりと囲まれていて、外の様子がほんの少しもわからないうえ、すりガラスの内側から漏れるおぼろな光のほかはろくな灯りもない。思わずたたらを踏んだが、天からすうっと涼しい風が吹きこんできて、顔を上げると、真っ暗な夜空にちりばめられた星粒がかなりこまかいところまで見えた。祥吾は思わず、すげえ、と感嘆の声を上げた。
こちらの湯船は、建物の中の湯船ほどの熱さはなく、涼しい夜風が吹きこんでいることもあって、のんびりすることができた。
どこかで虫かカジカが鳴いている。硫黄のにおいにまじって、草か土のようなにおいも風に乗ってやってきた。
温泉津は、ただそこにいるだけで生きた心地のする町だ。人は少なく、時間の流れはゆるやかで、休みの日にここで一日過ごすと、実際に休んだ時間以上に長く休めたような気になれる。
見事な星空を眺めながら、祥吾は、ああ帰りたくないなあ……と思った。
もっとのんびりしたい気持ちはあったが、少し頭がぼんやりしかけてきて、祥吾はやっと温泉から上がった。のぼせかけた頭は重いが、体はぽかぽかとして軽い。汗や埃と一緒に、余分な体重まで洗い流したような気がする。
パジャマがわりのジャージを着て、用意されていた手ぬぐいで汗をふきふきのれんをくぐると、廊下の向こうからぱたぱたと足音が近づいてきて、さっきの男が現れた。
目が合って、祥吾は自然に笑いかけた。
「どうも、いい湯でした」
男も目を細め、にっこり笑って口を開いた。
「お客様、お神楽でも見て行きませんか」
「え、今日やってるんですか?」
祥吾が思わず聞き返すと、男は、ああ、と笑った。
「うちの旅館で働く者たちがやっている、虎子舞子連中というのですが、いかがです、見て行ってやってはくれませんか」
興味がわいた。せっかくチャンスが目の前に現れたのだ、温泉津へ来たなら石見神楽を見て行かねばなるまい。
「こんな話をするのもなんですけど、チケット代的なものは……」
「千円いただきますよ。宿の座敷でささやかにやっているものですし、演目も一つしかお見せできませんが、それでよろしければ」
祥吾は頷いた。
「ぜひ、お願いします!」
男は頷き、頭を下げた。
「それでは、呼びかけてまいります。あちらの座敷へどうぞ」
祥吾が座敷に足を踏みいれると、すでに準備は整っていた。舞台は垂れ幕で囲まれ、袖には囃子方が揃っている。
観客は他に誰もいない。さすがに不審に思って、前の方に行くのを躊躇していたが、仲居さんが二人、どこからともなく現れて、ささ前の方へと促した。そして、舞台正面のど真ん中に分厚い座布団を敷いていくものだから、もうここまで来たらとことん満喫してやろうと開きなおって、祥吾はでんと胡坐をかいた。
そして、お囃子がはじまった。
軽やかな笛の音が心を躍らせ、太鼓の音は空気をひきしめる。詠み手の声はよく響いた。その声に耳を澄ませていると、「スサノオ」という言葉が聞き取れて、演目が「大蛇」だとわかった。
まもなく、垂れ幕の向こうから須佐之男命が姿を現した。ぎらぎらとこちらをねめつける眼、白い肌に黒いあごひげの神楽面、両手には幣と金色の扇をたずさえて。
「大蛇」はよく公演される演目だ。内容は『古事記』にも見られる八岐大蛇伝説で、八岐大蛇退治の場面が勇壮に演じられる。伝統芸能ならではの厳粛さと、戦いの場面の躍動感、両方が絶妙なバランスで互いを生かしあっていて目が離せない演目だ。すでにいく度か見ている祥吾も大好きで、何度見ても見飽きなかった。
足名椎と手名椎の動きは、まさに息ぴったりの老夫婦といった様子で、嘆きの演技すらどこかユニークで親しみやすい。それに、愛らしい面に華やかな衣装を身につけた奇稲田姫の可憐なこと。
緊張感の中にも和やかさのただよう演舞を楽しみつつ、祥吾は大蛇の登場を待った。
やがて老夫婦と姫が背後に下がり、彼らを守るように須佐之男命も下がる。垂れ幕がうごめいて、舞台をうかがうように首を動かしながら、それは姿を現した。
赤、青、白、黒の大蛇、四体。たてがみをふり乱し、眼光鋭く観客席を見渡す。大蛇たちは胴体を震わせ、絡みあいながら、舞台いっぱいにひしめきあい、荒々しく舞った。
やがて酒の桶を見つけた大蛇たちは、牙の生えた口をカチカチ鳴らして開け閉めしながら、桶に首をつっこむ。桶の縁をくわえて喉をそらし、豪快に酒を飲みほす大蛇たちは眠りこんでしまう。神話の再現である。
そこからの須佐之男命と大蛇との戦いの様は圧巻だ。神話では眠っている八岐大蛇の首を須佐之男命が斬りおとすとあるが、石見神楽では、ここで激しい戦いのさまが演じられる。
剣をきらめかせて舞う須佐之男命と、途中で目を覚まして応戦する大蛇たち。激しさを増す笛と太鼓とお囃子の音と声の嵐のなかで、須佐之男命はひらりひらりと舞い、そこへ大蛇たちは襲いかかり、長い胴体で押し潰そうとする。
そして、決着。激闘の果て、須佐之男命が大蛇の角をむんずとつかむ。剣を一閃させて、斬りおとした大蛇の首を高々と掲げた。
祥吾は声を上げて拍手した。今回は観客ただ一人だから、あまり大きな声を上げるのはためらわれたが、いつか別の場所で見た公演で、歓声が上がっていたことを覚えている。
次々に大蛇の首が落とされていく。これにて「大蛇」の演目は幕を閉じる。足名椎と手名椎、奇稲田姫、そして須佐之男命が一礼して垂れ幕の向こうへ消えていった。
祥吾は伝統芸能が大好きで、歌舞伎や能楽、人形浄瑠璃といったものもひと通り見たことがある。今まで見たなかでは、石見神楽には素朴さがあって、「大蛇」は特に荒々しさが特徴の演目だ。そこがたまらなく魅力的だった。舞台と観客の距離が近いように思えるのだ。
祥吾はそんなことを考えながら、すぐには立ち上がらず、囃子方も去っていこうとするのを眺めながら余韻にひたっていたとき、「お客さん」と呼びかけられてびくっとした。
振り向くと、囃子方の着物を着たうちの一人が、あの大蛇の頭部を抱えて、いつの間にかすぐそばにやってきていた。
「良かったら、触ってみます?」
にこにこしながら差しだされて、祥吾の警戒心は自然に解けた。
「いいんですか?」
「どうぞどうぞ」
そうして手渡された大蛇の頭部は、思いのほか軽かった。たった今、すぐそこで舞い狂っていた大蛇の眼が祥吾をぎろりと睨む。祥吾は小さく身震いした。
礼を言って大蛇の頭を返したとき、かすかにチリン、という音がした。
相手の手首に、赤いリボンが巻かれていて、小さな鈴の飾りがついている。変わったアクセサリーだなあ、と思ってちらりと目をやると、相手はそれをそっと隠すようなしぐさをした。
ぶしつけだったかな、と思った祥吾は、さっと相手の目に視線を戻し、改めてぺこりと頭を下げた。大蛇の頭を持って立ち去ったあと、さて宿に戻るか、とやっと立ち上がった。
そのとき、またしても現れた仲居さんに、お客さんお客さん、と声をかけられた。
「よろしければ寝る前に、日本酒を一杯いかがですか? 当旅館限定、お神楽をごらんいただいた大人のお客様に、お猪口一杯、試飲のサービスがありますよ」
「えっ、そんなのあるんですか?」
「はい。失礼ながら、成人はされていますか?」
祥吾はくすっと笑った。
「こないだ二十歳になりました」
「では、お持ちしますね」
仲居さんは、すぐにお酒を持ってきた。
実は祥吾は、日本酒を飲み慣れているわけではない。そのせいだろうか、こんなに小さなお猪口一杯ぶんで、すでに頭がふわふわしてきた。
ああ、だめだ、と思いながら、崩れおちたのは意識が先か、身体が先かわからなくなっていた。酔いつぶれる、という状況だという自覚があるのに、気分は全く悪くなくて、むしろ幸せなくらいだった。
それでも、このままでは迷惑をかけてしまう、という考えは残っていて、祥吾は、薄れゆく意識のなかでもかろうじて、すみません、と仲居さんに謝った。
いいんですよ、おやすみなさい……という返答を聞いたのが最後だった。