ゆのつ夢幻一夜①
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- 島根のファンタジー
- 祥吾は祖母が住んでいた温泉津の家に訪れた祥吾は、熱心に掃除をしたが、数年空き家となっていた家を寝泊まりできる状態にまではできなかった。宿泊できる場所を探していた祥吾は、仲居さんに声をかけられ、ふしぎな宿に案内される。
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ギシギシきしむ扉を開けた祥吾は、宿をとっておかなかったことを後悔した。
「こりゃあ、すぐに泊まれる状態じゃないぞ」
久々に訪れた家の中はカビくさく、あちこち埃がつもり、虫の死骸が畳の上にころがっているありさまだった。
祖母が亡くなるまで住んでいた家は、島根県の温泉津の地にある。おんせんつ、ではない。ゆのつ、と読む。
家は主を失ってから暮らす者もなく、ときおり親戚連中が泊まるのに使われるくらいで、それも年々少なくなっていっていた。
この家に人が入るのはじつに数年ぶりだった。ちょっとした掃除が必要な覚悟はしていた。だが家の中に足を踏みいれてからくしゃみを連発し、クモの巣に引っかかり、黒光りする虫の死骸に出くわしたあたりで、この家の床に布団を敷いて一晩過ごす元気はしぼんでしまった。
それでも掃除はしようと思う。思い出の家をきれいにしたい、そう決意して、大学生の祥吾は、この夏休みに久しぶりに温泉津へやってきたのだった。
ただ、すぐに寝泊まりできるくらいの状態にもできるかどうかといえば、それは別の話だ。祥吾は専門の業者ではないし、アレルギーだってある。
「見込みが甘かったなあ……」
ぼやきながらも、まずは換気にとりかかることにした。縁側を開けはなつと、電気がなくとも居間がさっと明るくなった。日向になった部分を見ていると、ばあちゃんお菓子ちょうだい、とまとわりついていた子どもの頃が思い出されて、祥吾はひとり微笑んだ。
祖母は優しかったが甘いわけではなく、小さかった祥吾がお菓子をねだると返ってくる言葉は、手伝いしたらこづかいやるから好きなの買ってきな、だった。
祖母はその言葉を必ず守るので、祥吾はいつも、皿洗いや肩たたきをきっちりこなした。それで報酬をもらって、すぐ近所の商店まで温泉せんべいやチョコレートを買いに行った。そのうち、祥吾がお菓子をねだらなくても、祖母のほうから、肩たたきお願いしまーす、なんて言ってくるようになって、注文どおりひと仕事終えてこづかいをもらう、そんなことがお決まりになったものだった。
そんなことを思い出しながら、祥吾は窓という窓を開けていった。閉めきられていた家の中に夏の陽射しが差しこみ、うっすらと硫黄のにおいと古い建物のにおいの入りまじった空気が、風に乗って入りこんできたのを感じると、いくぶん活力がわいてくるのだった。
使い捨ての雑巾や不要な道具類、掃きだした塵の山でゴミ袋ひとつがいっぱいになったころ、祥吾はやっとひと息ついた。
昼過ぎにとりかかってから三時間、季節が季節だけにまだ外は明るいが、のんびりしているとすぐ暗くなってしまうだろう。祥吾は縁側に立ち、西日に照らされた家の中を見渡した。陽はかたむきかけているが、手が届く限りの埃をふきとり、塵をとり除いた家の中は、さっきよりも明るくなっているように見える。
これならばあちゃんも喜ぶだろ、と思いながら、祥吾は汗をぬぐった。ただ、押し入れにしまわれっぱなしだった客用布団が悲惨な状態だったので、やっぱりここで寝泊まりする気にはなれなかった。今回は、その布団を見なかったことにしてそっと押し入れを閉めてしまったが、もう処分を検討するべきかもしれない。
戸締りと片付けを終え、ゴミ袋を二重にして、家を出た。旅館があるあたりへ向かおうと思ったが、夕焼け空があざやかに赤いのが目に入ると、さきに海を見ておきたくなった。祥吾はゴミ袋を、かつて祖父が使っていた駐車場に停めた車にほうりこんでしまってから、港のほうへ歩きだした。
つややかに赤い瓦屋根に白い壁、古い民家が立ちならぶ通りをまっすぐ進むと、やがて海沿いの広い道路に抜ける。すぐそこの観光案内所は閉まったばかりだが、駐車場には数台の車が停められていた。祥吾は駐車場の海際まで歩いて、港を見渡した。
港のむこうには青々とした山がいくつか重なり、眼前の透明な水の面は、その山の色をうつしとったような色合いをして、ゆらゆらと広がっている。沈んでいく夕陽のもと、きらきら光る海にいだかれて、白い漁船の群れが眠るように整列していた。
心ゆくまでその光景をながめてから、祥吾はスマホをとりだし、近くのベンチに腰かけて、いくつかの旅館の公式ホームページを開いてみた。
予想はできていたが、祥吾の財布の中身に合った旅館はどこも満室らしかった。ああ残念だな、とため息をつきつつ、今夜一晩くらい、埃っぽい祖母宅でもなんとかするか、とも覚悟しはじめていた。
ひとしきり夕焼けの海をながめて、あたりが少しかげりはじめたころ、祥吾はやっと立ち上がった。
そうして再び町のほうへ体を向けたとき、視界に動くものがうつった。猫だ。赤茶色のトラ猫が一匹、警戒とも期待ともつかないまなざしで、祥吾のほうをじっと見つめている。
歩きだそうとしていた祥吾のほうへ、猫はかろやかに近づいてきた。祥吾のほうは、思わず頬をゆるませながらも、ちょっと後ずさった。
「おれ、なんにも持ってないよ」
小さく声に出したが猫に伝わるはずもなく、トラ猫はしっぽをピンと立て、じりじりと祥吾の足元をうろつき回る。祥吾は体をすりつけられない程度の距離をたもちながら、猫の顔の前に人差し指を差しだしてみた。トラ猫は人懐っこい様子で、その指先に鼻を近づけてきた。妙に人懐っこい猫だと思ったら、チリンと微かな音がして、トラ猫の首元に、鈴のついた赤いリボンが巻かれているのが目に入った。
「悪いけど、よその猫にはエサやらない主義なんだよなあ……」
ひとしきり祥吾の指先のにおいをかいだ猫は、おやつをもらえないことをようやく察したか、急に愛想をなくしてふいと顔をそむけた。
祥吾は笑った。
「……手伝いしてくれたらこづかいやるけど」
すたすたと立ち去りはじめたトラ猫の背中に、祥吾は祖母をまねた言葉を投げかけてみた。猫はふり返りもせず、曲がり角の向こうへ消えてしまった。祥吾は微笑み、やっと歩きだした。
再び街中へ戻り、旅館や温泉のあたりにたどり着くころには、ずいぶん暗くなってきていた。閑散とした町だが、今は観光客や里帰りの人々でいつもよりにぎわっている。
これから夜になると、あちこちでオレンジ色を帯びた灯りがともるが、都会のような明るさはなく、少し離れたところの人の顔はよく判別できないくらいになる。和洋入りまじった古い木造の建物や、旅館の名が記された、年季の入った看板がやわらかく照らしだされた空間を歩いていると、現代ではない、どこか古い時代に迷いこんだような気分になるものだ。
この季節の夕暮れどきはまだまだ明るく、現実感もしっかり残っていて、古今のはざまの風情だ。道行く人々もあちこちで写真を撮ったり、笑いあいながらあたりを指さしたりしている。
思ったより賑わっている様子に祥吾は、望み薄だなあ、と思いながら、いくつかの宿に空きの有無を確認してみたものの、案の定どこも満室だった。
「……そりゃそうだ」
最後にあたった宿をあとにしながら、祥吾はひとり苦笑した。これで今夜は布団なしのごろ寝確定、せめて温泉には入っていくか。
いつも訪れる温泉のほうへ向かっていると、近くにいた観光客ふうの女が「あっ猫」と声を上げた。祥吾が思わず目をやるのと、その女性に同行していた男性が「いや、違うだろ」と言うのが聞こえるのは同時だった。
人間たちの注目を浴びてビクッと動きを止めたシルエットは、たしかに猫に似かよっていたが、それよりもややぽってりと丸みを帯びている。タヌキだった。
「タヌキじゃん!」
「すげえ、初めて見た!」
男女が写真を撮ろうと携帯電話を取りだした瞬間、タヌキは逃げ出してしまった。祥吾はふふっと微笑んだ。
子どものとき、温泉津に来ると一度はタヌキに出くわしたものだ。温泉津温泉を発見したのはタヌキだという言い伝えもある。
ちらほら行きかう観光客にまじって、温泉の前までやってきたとき、突然、背後から「あの、すみません……」と声をかけられて、祥吾は驚いて振り向いた。
そこに、着物姿の女性が立っていた。さっき、いくつかあたった旅館のひとつで見かけた仲居さんの着物だ。
「すみませんね、驚かせて」
いえ……と言いつつ困惑していたが、祥吾は「なんでしょう」と問いかけた。仲居さんは胸の前で手を組んだ。
「さっき来ていただいたのに、うちではお部屋がありませんでしたでしょう。実は、親戚が空き家を利用して小さなお宿をはじめたばかりなのですが、空きがあるそうで、よければご紹介しようと思いまして……」
祥吾は首をかしげた。旅館って、こういうことまでやってくれるものだっけ。ただ、この仲居さんの旅館は雑誌にも紹介されているくらいで、あやしげな宿ではないことはよく知っていたから、まずはこう聞いてみた。
「そこって、一泊いくらくらいですか?」
ふところ具合のこともあるし、極端に安かったり高かったりしなければ、怪しい話ではないと判断できるかもしれない。仲居さんはちょっと思い出すようなそぶりをしながら言った。
「素泊まりで、五千円です。今からお料理をご用意することはできませんで……」
祥吾はちょっと考えた。温泉津でお店が閉まるのは早いし、コンビニへも距離があるから、念のため、昼のあいだに食糧を用意してきてある。珍しいこともあるものだとは思ったが、ちゃんとした旅館の紹介ならおかしな話ではないと思ったし、せっかく温泉津に来て、窮屈な一夜を過ごすのももったいない。
祥吾は心を決め、頷いた。
「じゃあ、お願いします」